常識についての覚書

小学生のころ人と上手くコミュニケーションをとることができないと悩んでいたことがありました。

その理由はみんなの中で明文化されていないルールを私が破っているところまで当時理解していました。明文化されていないルールは「常識」と呼ばれるもので、辞書には「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」と記載があります。

みんなと仲良くしたかったので、常識を知りたいと思って、先生や親や友達に聞いていったのですが、そもそもその行為自体が「常識的」でなかったので異質なものとして私は分類されていたと思います。

 

さて、大人になった私ですが、最近常識について発見がありました。

それについて少し書こうと思います。

 

人とコミュニケーションをとるときに、意識的にも、無意識的にも、ある程度どのような反応が返ってくるか予想して相手に刺激を与えます。

例えば、朝職場で挨拶するときに「おはよう!」と言ったら、「おはよう!」と返答がもらえると勝手に脳が予想します。予想の範疇の返答であれば私たちは特に困らず、コミュニケーションのやりとりを続けることができます。

しかし「おはよう!」と言ったのに「おやすみなさい」と返ってきたとしましょう。「おはよう!」と言った人は、朝、しかも職場で「おやすみなさい」なんていうやりとりのパターンを持っていませんでした。そうなると「おやすみなさい」と発言した人に対して、「常識がない」と判断を下すでしょう。

これが常識もっている側面だと思います。

相手が予想できない返答をする。それにより相手を困惑させてしまう。そのような発言や行動が「常識がない」と言われる原因だと思います。

面白いところは、相手方の常識的かどうかの判断は受け手側に依存するところです。

 

もう一つ例をあげましょう。

先ほどと同じように、朝職場で「おはよう」とあいさつをするシーンを考えます。ここで「あなたはとても臭いですね」と返したとしましょう。せっかく挨拶をしたのに、「あなたはとても臭いですね」なんて言われたら、とても嫌な気分になります。この自分を不愉快にしたという刺激も「常識がない」と分類される原因になります。(中には「あなたはとても臭い」と言われて、そのすぐに改善可能なバグを教えてもらえてありがたいと思う人もいるかもしれませんが、話がややこしくなるのでこれは置いておきます。)

そしてこちらも、常識的かどうかは相手の判断に依存します。

 

「常識的でない」ということは、自分の言動が相手にとって「想定外のことである」「不愉快である」といったことを表している言葉であり、みんなが共有していて私だけが知らない規則を破っているという意味ではない。ということになります。”みんなが共有している明文化していない規則”なんてないのです。あるのは、私とあなたのやりとりだけなのです。(ちゃんとした学問として常識を論ずるときには、色々考慮すべきことがあるのでしょうが、私が安心して暮らすうえではこの理解が最適でした。)

みんなが知っていて私だけが知らないという状況は考えただけも辛いものがあります。

でもそんなものがないと思った時、幾分か気持ちが楽になりました。